2014/05/26

選択試験が性格に与える影響

2013/02/05

センター試験は、マークシート方式のため、数学等を除き選択問題が大半を占める。国語はほとんど5択だ。

社会に出るまでに、いったい日本の子どもたちはこの選択問題を何問解かなければならないのだろう。

 この選択問題が、人の性格に影響を与えているという話を聞いた。

選択問題は、正解がすぐ分かってはいけないので、9割くらい合っている、いわゆる引っかけ問題が1〜2題含まれている。

この引っかけ問題に引っかからないように正解を探す作業を続けていると、

引っかからないように、だまされないように、という「防衛的」性格が形成されるというのだ。

巷には、オレオレ詐欺や押し買いに見られるように、隙あらば金をくすねてやろうという輩がいる。だから、「人を見たら泥棒と思」うことも必要だ。「男は敷居をまたげば七人の敵がある」という古人の教えもある。

しかし「渡る世間に鬼はない」という真逆の諺もある。世間には困ったときに助けてくれる情け深い人もいるのだ。

防衛的性格が形成されると、物事を懐疑的に見たり、関わりを避けるようになるという。

今回の総選挙で、2024歳の投票率は46%だった。政治家の言うことなんて信じられない。どうせ年金はもらえないだろうし・・・ということか? 

選ぼうとしたが、「消去していったら 答えなくなった (拙句)」のか?

いずれにせよ、マークシート方式は若者の性格形成になんらかの影響を与えているようだ。

欧州各国で実施されている「国語」の試験の多くは、論述形式だという。アイルランド人の知人によれば、アイルランドでは、夏休みが3か月あるが、その理由の一つは、教師が生徒の出した作文や小論文を採点しなければならないから、とのこと。真顔で言っていたからたぶん本当だろう。

2013/04/01

「高校の英語の授業は原則英語で」に思う

平成25年度が始まった。

この4月から、学校英語の現場で大きな変化が起こる(はずだ)。2008年に出された学習指導要領改定案により、この4月から高校1年生の英語の授業は、*原則として英語で行うことになったのだ。

*原則とあるのは、100%英語でなくてもよい、ということで、文法の説明等、限定的に母語(日本語)を用いてもよいということだ。実際、母語の適度な使用(冗談など)は、生徒とのラポールを築く上でも有効である(→ 拙著  Numaya, Mareo, Code-Switching of a Bilingual Japanese/English Teacher in an Elementary JFL Classroom, MA Research Paper, Southern Illinois University at Carbondale, 1993)。

基本的にこの方向に賛成である。
というか他国では母語をなるべく使わないで英語を教えるのは当然のことで、日本だけが母語で英語を教えてきた。

英語は漢文学習とは異なり、読む・書くだけでなく、聞く・話す力もつけないと、実際のコミュニケーションの場面で、役に立たない。

ようやく日本の英語教育も、文法訳読方式(多分に漢文教育の影響を受けていると思われる)を脱し、コミュニケーション重視の方向へ大きく舵を切ることになる(はずだ)。

けれども、手放しで喜んでばかりもいられない。以下、この流れをホンモノにするために必要な改善点を挙げたい。

(1)英語教師の実践的英語力向上 
(2)英語専用教室
(3)「異なる価値を認めない空気」の一掃
----
(1)英語教師の実践的英語力向上

英語教師は、他教科以上に日々の研鑽が求められる。英語は言葉なので、日常的に触れる努力をしないと、錆び付いていく。指導法も今回の指導要領改定案のように、大幅に変わることがあり、特に年配の教師は、採用試験で求められなかった実践的英語力を、努力して身につけなければならない。校務多忙の中、この力を身につけるのは容易ではない。

そこで、是非とも大学(特に教育系)では、夏期休業期間等を利用して、英語教師向けのブラッシュ・アップ(錆落とし)講座を開いてもらいたい。(研修費が自腹にならないように、年休でなく研修として参加できるようにして。)

(2)英語専用教室

英語の授業は、英語専用の教室で行うことが望ましい。これは、生徒の頭の中を英語モードに切り替えるために不可欠だ。数学や国語の授業を受けた教室で、そのまま英語の時間になっても、モードを切り替えにくい。壁に英語に関するポスターなどが張られた「英語空間」を作ることで、生徒は英語モードに入りやすくなる。(この教室に一歩入ったら日本語は使えないというルールを作ってもよい。)

(3)
「異なる価値を認めない空気」の一掃

一朝一夕には難しいが、「みんな違ってみんないい」が名実ともに実現するように学校全体の雰囲気を変えていく必要がある。そのためには、藤原和博元和田中校長が主張するように、地域の人に学校に入ってもらい「斜めの関係」(私の解釈では、成績評価を意識しないでつきあえる年長者)を多く作るのもいいだろう。さまざまな大人と接することで、異なる価値観の受容力が高まるに違いない。

中高生の年代は、思春期とも重なり、人前で恥をかきたくない気持ちが強くなる。シャイな生徒にどう「伝える力」をつけさせるか工夫が必要だ。ロール・プレーイング(役割演技法)は、RPGに慣れている子どもたちには、入りやすいかもしれない。また、劇作家・演出家の平田オリザ氏が書いているように、「演劇」を教えることもコミュニケーション力向上に役立ちそうだ。(欧米の学校には、実技科目の中に「演劇」がある。)

グローバル化が進む中、英語力不足のせいで国際競争力が落ち、韓国や中国の後塵を拝すようになってはならない。

2013/03/24

日本人の英語が上達しない理由

知人からこんな話を聞いた。

講師として教え始めた某ゼミナールで、中学生に「そんなに気取って読まなくても…」と言われ、イヤな思いをしたと。

50代後半で、塾とは関係のない本業を持つ彼には、相当こたえたらしい。

そもそも今の若い世代は年長者に対するリスペクト
(※)が足りない。そうでない者もいるがこの例のように平気で失礼なことをいう者が目立つ。

 
(※)リスペクト(respect)とは、その人の価値を認め、意見や考えを尊重すること。上下関係に基づく「尊敬」や「敬意」とは少し違います。

たしかに塾はサービス業だからお客である生徒が満足するようにすべきであろう。しかし、だからといって何を言ってもいいはずがない。

この発言は
単に近頃の若者は悪平等主義か何かの影響で経験豊富な人(※)から学ぶ姿勢が無くなった、というにとどまらない。

 (※)目上の人という言葉は使いづらくなった。現在この国では「上から目線」はすべていけないことになっている。

実は、もっと根本的な問題をはらんでいる。そしてそれは、いじめ問題と深くつながっている。


日本人の英語力が伸びない理由として
次の2つが挙げられる。

1つは、日本人が完璧主義すぎること。そしてもう一つは恥の文化と深く関わるが
失敗を怖れる気持ちが強すぎること。間違えるのが恥ずかしいから、あえてチャレンジしない。「縮み思考」である。言うまでもなく、間違えずに語学を習得することなどできない。

そして2つ目の理由に影響を与えているのが、自分の属す集団の、異なる価値を認めない空気である。

教室の前の壁には、金子みすゞの「みんなちがって、みんないい」という掲示があったりするが
現状はそれとはほど遠い。(だから張ってあるわけだが。)

私も経験があるが、たとえば帰国子女は、英語の時間、なるべく英語らしい発音をしようとしない。わざと日本人的な発音をするのだ。英語本来の発音をすると非日本人と思われ、いじめの対象になるからだ


このように日本では
マジョリティーが異なる価値観や行動パターンを持つマイノリティーに対し、集団的圧力をかけ続けている。

いじめの主因もまさにここにあり、集団から何かが少しでも外れているといじめのターゲットにされる。勉強ができてもいじめられる。

英語の場合も同じで英語らしい発音をしようものなら何だあいつはということになる。だから英語が好きでよくできる子は、なるべく目立たないように勉強し、ペーパー試験で良い点を取る。けれども話すのは、練習の絶対量が足りず、うまくできない。

こんな状況が戦後ずっと続いて来た。そうこうするうちに、英語の運用力の点で、韓国や中国に大きく水をあけられてしまった。

楽天の三木谷社長が『たかが英語』という本を書いた気持ちがよくわかる。

これからは、日本語か英語かではなく、日本語も英語もしっかり身につける必要がある。ある研究によると、外国語を学ぶことで母語の習得にも相乗効果があるということである。(もちろん、あまりに早い時期から英語にさらされると母語を喪失しかねない。この点は注意が必要だ。)小学校5年生から必修化された英語も、週にたった1回、年35コマしかなく、それほど他教科に影響を与えるとは思えない。

今や英語は単なるコミュニケーションの道具で、ネイティブの「専売特許
」でもなんでもない。同じアジア人同士でも共通言語は英語である。

「そんなに気取って読まなくても…」と言った生徒は、はからずも学校教育が昔と何も変わっていないことを示した。

自分とは異なる価値を認めない社会からイノベーションは生まれない。このままいけばガラパゴス化が加速するだけだ。

異なる価値を認め、もっと積極的に取り入れない限り、自国の中での堂々巡り
(=閉塞状況)はいつまでも続くだろう。

いじめがなくならない理由と英語がうまくならない理由は、通底しているのである。

2012/09/25

もっとよくなる学校教育〜2

前回のひとりブレストを基に、学校教育の問題点を4つの柱に分けて考えてみます。

1.行政の問題
2.教員の問題
3.親の問題
4.地域の問題

---

1.行政の問題

 教育予算の不足

 悲しいことに日本の教育予算は先進国中最低です。もっとお金を子どもたちのために使わないと明日の日本はありません。教育は票に結びつかないという理由で積極的に動かない政治家が多いと聞きます。本当でしょうか? 

 教育予算は、未来への投資です。子どもたちがより良い教育を受けられるようにするのは、私たち一人一人の責任です。

 お金が不足しているため起きている現実

・少人数教育が行われていない
 平成17年までに公立小中学校の全学年が35人学級を目指すことになりましたが、35人でも多すぎます。基本的なしつけができていない児童・生徒が多い今日、担任1人で35人を見るのは無理があります。2人担当制(ティームティーチング)等の導入が不可欠です。

・教育設備の遅れ
 発展途上国の教育関係者が日本の学校を視察に訪れ、ハイテク日本の教室があまりにお粗末なので驚いて帰国した、という笑えない話があります。
 特に高校の校舎の老朽化が進み、小中の校舎に比べて明らかに見劣りのする校舎が多くあります。校舎は子どもたちが一日の大半を過ごす場所。居心地の良い空間をつくってあげたいものです。 
 
・ICT教育の遅れ
 設備にお金がかかるため、ICT(Information and Communication Technology、情報通信技術教育)が先進校以外、ほとんど進んでいない。「情報」教育自体、受験科目に関係ないため重視されていない。
 
・講師の数の増大
 非常勤および常勤講師の数が増えている。正規の教諭採用による人件費を削減するため、常勤講師の枠を設け、教諭採用を控えている。生徒にとっては同じ「先生」だが、中には何度教員採用試験を受けても受からないであろう人物も一定数含まれている。その結果、全体的に教育の質が下がっている。

・事務職員の不足
 事務職員の定数が削減される傾向にあり、その分の仕事が教員の負担になっている。欧米の学校では教員と同数の事務職員を置くところも多いそうだが、日本では事務職員の数が経費削減のため減少する傾向にある。
 そもそも事務職員の勤務体系は教員と異なり、昼休みの時間も違えば、土日に学校行事があっても事務職員は出勤しない。(したがって事務職員がいないときは、教員が肩代わりする。)それでなくても日本の学校の教員は事務仕事を多くしなければならなくなっている。地方公務員の中に、教員と同じ勤務体系の「学校事務職員」という枠をつくり、学校事務のスペシャリストを養成することが必要だ。

 多目的人間としての教員

 教育予算の不足は、教員一人一人が多数の業務を掛け持ちする形で、かろうじて補われている。

 尾木ママによれば、日本の先生は平均一人11役、一方海外では、せいぜい4〜5役だという。いかに日本の教員は、一人分の給料で多数の業務をこなしているかわかる。

 多目的教室というのが学校にあるが、先生も多目的なのである。日本人は多目的というのが好きで、多機能のスマホ(ガラパゴス化と揶揄されているが)が真っ先に思いつく。水洗トイレで、タンクに溜める水を使って手を洗えるようにしたのも日本人の発想だという。

 自分の経験を例にすると、①教科(英語)指導(週20コマ)、②クラス担任・副担任、③校務分掌(教務、生徒指導、進路指導等)、④部活顧問(テニス、卓球、バレー、剣道、囲碁将棋)、その他、⑤学年会計、⑥学年通信作成、⑦学校行事の記録(写真・ビデオ撮影)、⑧各種印刷物作成、⑨講演会の看板作成・設置、⑩駐車場整理係、⑪給食関係(毎回サンプルを袋に小分けし冷凍保存、記録簿に毎回記入(冷凍庫の温度の記録--毎回同じなのだが--とか、ネズミが出たかどうかまで記録)、⑫ALTの活用について他校と連絡・調整・報告、⑬SELHi事業のため週2回の会議(会議は他に校務分掌と学年会が毎週1回ずつ、放課後ではなく、授業の空き時間に入っている → 授業研究の時間が不足)、⑭副教材の注文手配・決済、⑮図書館係(司書がいないのでその仕事)、⑯掲示物・ポスターの掲示と取り外し、⑰週1回の朝テスト問題作成・採点・結果掲示・補習・再テスト(昼休みを使う)、⑱英検2次面接指導(年3回)、⑲放課後補習…

 ざっと挙げただけでもこれくらい多岐にわたる。(おかげでいろんな仕事を覚えた。)これらをすべて同時にやったわけではないが、忙しい年には、10種類以上やっていたと思う。

 教員が大変なのは、これらの仕事が同時並行的に進むということである。プロジェクト方式だったり、一つずつこなしていけばいいのなら、集中しやすいが、そうではない。ちょうど、頭の中で皿回しをしているようなもので、寝ていてもワーキングメモリが常に使われており、熟睡できない。ある仕事に気を取られていると他の仕事がおろそかになり、「皿が落ちて」気づくことになる。

 この時勢、失敗に寛容な人(管理職=校長、教頭)はそう多くなく、というか、管理職になる人はみな心配性な人ばかりなので、何か問題が生じると大騒ぎになり、責められる。 

 
 それと、よく誤解されるが、教員には残業手当は出ない。土日に働いてもせいぜい5百円出る程度である。

 夏休みも昔と違い、自由に休めるわけではなく、民間企業同様、年休を取って休んでいる。(GTOの再放送を見ていたら、夫は教師なので夏休み中、家にいて困るという話をしていた。昭和ならまだしも現在そういうことはありません。)

 教育予算が少ないため、日本の教員は、一人で何人分もの仕事をこなさなければならないのだ。その結果どうなるかは明らか。

 授業準備の時間が十分確保できず、児童・生徒の学力向上につながらない。

 上から求められるアンケートや報告が多く、PCを使う事務作業が増え(*)、生徒と直に接触する時間が減っている。そのため生徒の日々変わる様子の変化を把握するのがむずかしく、いじめのサインを見逃すおそれもある。

(*) たとえは、O157がはやると、とたんに給食関係の報告事項が増え、いったん始まるとこの報告は以後ずっと続く。止めてよいというお達しはまず来ない。一つ一つの報告はたいしたことがなくても、日常的にこのような報告を複数こなすのは、他の優先順位の高い仕事(授業準備等)の時間を奪うことになる。結果、生徒のためにならない。

まとめ:

 教育予算を増やし、教員の多目的利用に歯止めを! 

 教師が生徒と接する時間が増えると…

  ①学力アップ 
  ②生徒の様子の変化がよくわかる(いじめのサインをしっかり掴める)

2012/09/21

もっとよくなる学校教育〜1

中学および高校で三十年近く教育に携わってきた者の目線から、現在行われている我が国の学校教育について考えてみたい。

なお、私は現在、公教育に関わっていない。したがって、比較的自由に発言できる立場にいる。現職教員が言いたくても言えないことも代弁できればと思う。

学校教育について一文を草する気持ちになったのは、このままではこの国はヤバイ!と心から思うからだ。子どもたちが卒業後必要になることを、教えているとは思えないからだ。昔からやってることをただくり返すだけの時代遅れの学校。学力をつけることだけが最大目標で、心豊かな生徒が育たない学校。共感力が低く独善的な「頭のいいバカ」を輩出している学校。…そんな学校がごまんとある。

この国の学校教育は今すぐ改善されなければならない。そうしないと、日本は世界の中で取り残されてしまうだろう。今後ますます進むであろう、グローバルなネットワーク社会からはじき出されてしまうだろう。

以下、学校教育を取り巻く課題について、まず、ひとりブレストしてみる。その中から特に重要と思われる問題について、順次、深掘りしていきたい。

・いじめ → 自殺
 「みんな違ってみんないい」はかけ声だけ
・先輩後輩(学校内では1年違うとえらい違いだが、学校外では年長者に敬意を払わない → 日本化した儒教ルール? → 村社会ルール)
・形骸化した教育委員会(名誉職としての教育委員)
 公選制を再考しては? 地域の住民が教育委員の顔と名前を知っている社 会に(アメリカではそう。それだけ教育は国の未来にとって重要と考えられている)

・管理職や指導主事になる人のタイプ・思考パターン
・校長・教頭の資質、権限
 教諭を指導しない管理職(誰も悪者になれない。部下を叱れない)
・上下関係のない教員社会(指揮系統が不明確)
・チームになっていない教員集団(ベクトルがてんでばらばら)
・「上司」がいないため若手教員が育たない
 炉辺談話なし(先輩の経験が後輩に受け継がれる時間がない。飲み会も少ない。)
・社会経験が少ない教員
 若いときから誰にも指導されない 

・先進国最低の教育予算
・事務職員の削減 
 本来事務職員がすべき仕事を教員が肩代わり→ 教員の仕事の増大
・PCを使う作業の多さ
・アンケートや報告の多さ(一度指令が来て始まると毎年続く。例、O157がはやると給食のチェック項目が増え、毎回記入しなければならない。←本来、給食センターが行う仕事)
・多目的人間としての教員 ひとり平均11役で給料は一人分
・生徒と接する時間の激減
・教材研究をする時間の不足
・素人の教師が担当する部活
・土日部活の指導をすると、余暇(本を読んだりして人間として成長する時間)がなくなる

・成果主義、数値主義の学校への導入(民間企業のまね)
 教育は数値化できない部分が多い
・信頼性の低い教員評価(校長の出張が多く、教諭をよく見ていない)

・日教組の問題(最初から管理職と対立関係。是々非々で協力する柔軟性がない。)
・日教組が植え付けた悪平等主義の弊害 → 個性を認めない

・モンスターペアレンツ
 教育の学校への丸投げ(アウトソーシング)・・・学校任せで非協力的な親
 しつけも学校の仕事
・生徒=お客様=神様ではない
・学校はサービス業ではない

・知育偏重、知識を統合する力(編集力)を育てていない

・国語教育の問題(漢文古文の割合多すぎ。国文法は必要最小限に。品詞分解などいらない。)
 発信型の日本語教育を(会議やプレゼンの仕方など)
・漢字学習の負担が大きい → 漢字の簡略化をなぜ論じない? 中国の簡体字をみならうべき
 読めればいいだけの漢字と書けなければいけない漢字を明確に区別する
 「薔薇」は書けなくてよい。中高生は、漢検準1級以上を取る必要はない
 基礎の礎は18画もある。小中学生の漢字学習に掛ける時間を減らすことで他の学習時間が確保できる。

・英語教育
 小中高と一貫性のない英語カリキュラム
 到達目標の明確化、英語教員の再教育

・教員は聖職ではないし、学校は聖域でもない
 地域の人にとって敷居の低い学校へ
・学校が建前の場所になっている → 本音で語り合える場所に、子どもは親、地域、学校で育てる

とりあえずここまで。

 

2007/02/14

学校教育問題

私学の教育内容(受験指導偏重)が,公教育に多大な影響を与えている。

東大の合格者の52%は私立の中高一貫校の卒業生だそうだ。東大ばかりが大学ではないが,おそらく他の難関校でも似たり寄ったりだろう。 

ある埼玉県の私学は,全寮制で,毎日10時間授業を行っているそうだ。これでは地方の公立は勝てっこない。私学が,中央(大都市)と地方の経済格差を拡大する装置として,日々働いているのである。

文科省は今すぐ私学の教育内容を点検し,行きすぎた受験指導を行っている学校には,改善命令を出すべきだ。公立も私立も同じ土俵で競えるようにしてもらいたい。

政治家にも注文がある。献金は私学からしかもらえないからかもしれないが,私学の言うことばかり聞いていると,日本全体の教育がおかしくなってしまう。もっと教育に予算をつけてもらいたい。途上国から学校視察に来た人たちが,設備を見てあきれて帰ったという笑えない話もあるのだ。


 

2007/01/07

私立に引きずられる公立高校

昨年明るみになった未履修問題は、公立に厳しく、私立には甘かったと思うのは私だけだろうか。また未履修で挙げられた高校は、地方の進学校に多かった。都市部の私立校(中高一貫で6年を5年で済ませ、残りの1年を受験対策に使う学校)と競うため、思いついた方法なのかもしれない。

だからといって公立のインチキを正当化するつもりはない。問題にしたいのは、私立の教育実態だ。

だいたい、公立、私立というが、両者は同じ高校(または中学)というカテゴリーに入れていいものか。私立の多くは「会社」で、営利を目的にしている。いきおい教育内容も学力最優先。男女交際を禁じているところさえある。

未履修問題では、文科省の監督が現場まで行き届いていないことがわかった。公立に対してすらそうなのだから、私立へはなおさらだろう。(私立の名前も出たが、多くはもみ消したと思われる。また私立の校長は公立からの天下りもいて、県教委が「先輩」を指導しにくい事情もある。)裏カリ(キュラム)を作っているところはかなりありそうだ。履修科目だけでなく、授業時数もチェックすべきだろう。また週五日制なのに、私立の多くは土曜も講習を行っている。それにならって公立も始め出した。おかしい。ルールが曖昧だ。週五日制というなら、例外を認めてはいけない。

学力向上はいいが、一方的な教え込み、詰め込みでは、自分で考える力がつかない。読書もしないので、教養が身に付かない。薄っぺらな人間しかできない。世の中にとって一番困るのは、頭のいいバカである。

詰め込みの結果、大学進学後、勉強する気がなくなるのは当然。実際、希望の大学に入っても、燃え尽きてしまい、退学する者もけっこういるそうだ。(某掲示板による。)高校側は、進学実績を残せたかもしれないが、生徒は結果的に不幸になっている。これはちょうど、監督のスパルタ指導で甲子園へ行ったが、卒業したら二度と野球をしたくないという選手に似ている。教育には長期的な視点が不可欠だ。

いずれにせよ、フェアでない競争に公立が巻き込まれ、その教育活動が歪められている(7限授業や学校行事の縮小など)としたら問題である。文科省は、私立の教育実態をどれくらい把握しているのか。

2006/11/23

いじめの背景

いじめによる(と思われる)子どもの自殺が、連日報道されている。誰にも相談できず、ひとり思い悩み、死を選んだ子どもたち・・。 

文科省は、過去7年間、いじめによる自殺はなかったと発表してきた。いじめ自殺がなければ、対策を講じる必要もない。この問題を放置してきたといわれても仕方がないだろう。現状認識が甘すぎる。

現場の校長、教育委員会は、いじめによる自殺と思われるケースでも、極力認めず、文科省への報告を怠ってきた。自分の身が生徒の命よりも大事だからである。 

今の学校は、以前にも増して、一つの価値観で生徒を塗り込めようとする傾向が強い。教室の壁には、「みんなちがってみんないい」などという掲示があったりするが、実際はその正反対の価値であふれている。つまり、人と違っている者は、「間違っている」から、いじめてもいいという空気である。ひとりひとりの個性を大切にと言いつつも、実際は、学力という一つの尺度で生徒を序列化し、効率性という点で、行動の遅い者、体力のない者を、助けるどころか邪魔者扱いにする。教師自らいじめに関与した例など、このことを如実に示している。

教員採用のあり方も真剣に考える必要がある。以前ほど教員集団に多様性がなく、狭い価値観で指導に当たっているのではないか。特に若い教員の中には、塾・予備校で学んだ者も多く、学力がすべてであり、できない子供の気持ちがわからない者が増えているのではないか。

いじめがなくならないのは、一言で言えば、この社会に負のパワーが蔓延しているからだ。子供に、いじめを傍観してはいけないと言うのなら、まず大人が、電車内の痴漢を傍観してはいけない。痴漢が、おそらく先進国で一番多くいるのは、傍観者が多く、正の力が結集しないからだ。見て見ぬふりでは、正のパワーは結集しない。だから、負のパワーに負けてしまうのである。

無料ブログはココログ