トップページ | 2006年12月 »

2006/11/23

いじめの背景

いじめによる(と思われる)子どもの自殺が、連日報道されている。誰にも相談できず、ひとり思い悩み、死を選んだ子どもたち・・。 

文科省は、過去7年間、いじめによる自殺はなかったと発表してきた。いじめ自殺がなければ、対策を講じる必要もない。この問題を放置してきたといわれても仕方がないだろう。現状認識が甘すぎる。

現場の校長、教育委員会は、いじめによる自殺と思われるケースでも、極力認めず、文科省への報告を怠ってきた。自分の身が生徒の命よりも大事だからである。 

今の学校は、以前にも増して、一つの価値観で生徒を塗り込めようとする傾向が強い。教室の壁には、「みんなちがってみんないい」などという掲示があったりするが、実際はその正反対の価値であふれている。つまり、人と違っている者は、「間違っている」から、いじめてもいいという空気である。ひとりひとりの個性を大切にと言いつつも、実際は、学力という一つの尺度で生徒を序列化し、効率性という点で、行動の遅い者、体力のない者を、助けるどころか邪魔者扱いにする。教師自らいじめに関与した例など、このことを如実に示している。

教員採用のあり方も真剣に考える必要がある。以前ほど教員集団に多様性がなく、狭い価値観で指導に当たっているのではないか。特に若い教員の中には、塾・予備校で学んだ者も多く、学力がすべてであり、できない子供の気持ちがわからない者が増えているのではないか。

いじめがなくならないのは、一言で言えば、この社会に負のパワーが蔓延しているからだ。子供に、いじめを傍観してはいけないと言うのなら、まず大人が、電車内の痴漢を傍観してはいけない。痴漢が、おそらく先進国で一番多くいるのは、傍観者が多く、正の力が結集しないからだ。見て見ぬふりでは、正のパワーは結集しない。だから、負のパワーに負けてしまうのである。

トップページ | 2006年12月 »

無料ブログはココログ